寿司図鑑 雑記23

大阪市都島「吾妻鮨」01

2008-09-13

ボクの密かな趣味というのが「無駄歩き」というやつ。
 ただ、お散歩とでもいえばいいのだけど、“歩く”というのは当たり前だけどボクにとって目的ではなく、また散策するという情緒にも欠ける。
 その上、とにかく行く当てもなく街を、店を見て見て、そして歩き回るので疲労困憊する。
「目的もなく無駄に疲労を重ねる無駄歩き」なのだと自分で勝手に造語してしまった。

 大阪ではあまり「無駄歩き」する時間がとれたことがない。
 だいたい鶴橋というボクにとってワンダーランドのように楽しい場所があるので、そこでたくさんの時間を消費してしまって、「それも無駄歩き」ではないのか? というと魚貝類を調べているために「無駄ではない歩き」に分類される。
 そんな理由から大阪で無駄歩きする機会は一向におとずれない。

 そんなある日、地下鉄谷町線を千林大宮から東梅田(大ざっぱに言えば大阪駅周辺)に向かっていた。
 車内で「一時間くらいなら無駄歩きできるのだけど……」と懊悩していたのだ。
 考えている内に野江内代駅を通り過ぎる。
 ここはボクがもっとも無駄歩きしてみたい場所であって、「あっ」と思ったら過ぎてしまっていた。
 野江内代駅で下りてみたいというのはつまらない理由からで、大阪には数々の難読地名があるのだけど、ここもそのひとつなのだ。
●注/「のえうちんだい」と読む。
 過ぎてしまって、次の駅が都島駅で、決断すべしと思い、下りてしまったのだ。

 地上に上がると、いかにも平凡な街並みが、道路が見える。
 何もない、ように思えて、いちばんごみごみしていそうな、人の臭いのする方向に歩く。
 そこが都島本通という商店街。
 一枚映そうとカメラをかまえるのも不自然なほどに、なんの変哲もない寂れたシャッター商店街で、仕方なく、より薄暗い方へ、薄暗い方へと歩く。
 このとき、間違いなく外気温は35度を上回っていたはずだ。
 薄暗い小さな路地は、たぶん昔は市場であったのだろう。
 今では営業している店は少なく。
 自転車置き場と化していてがらんとして寂しい。
 路地に面して、持ち帰り専門のお好み焼きを焼くオッサンが黙然と熱い熱い鉄板に向かっている。
 ボクに向かって不思議な笑顔を作り、なにか言っている。
「お好み焼き買いまへんかー」なのだろうか?
 小さな小さな味噌や漬物を売る店があって、板に並んだ漬物が茹だっているように見える。
 その薄暗い影に隠れるように佇む老婆が小さい。

 その昔、市場であった場所を中心にぐるぐる無駄に歩く。
 猛暑であるよりも熱暑としかいいようがない。
 どこでもいいから涼める場所を探していたときに見つけたのが「吾妻鮨」である。
 関東で「吾妻鮨」という暖簾を見ても、そこにはなんの意味もあるわけではない。
 でも大阪で「吾妻」であることにはたぶん深いワケがある。

 江戸という一地方で文政期(1817年〜1841年)に生まれた握りずしが地方に普及するきっかけは、歴史的にみると二度あった。
 もちろん握りの地方への普及は少ないながらもあっただろう。
 ただし、大きな流れとしての「握りずし」の地方への流出は、一に関東大震災、二に戦後の食糧難時代だ。
 関東大震災時、首都の壊滅的な状況に多くの江戸前すし職人が地方へと移り住んだ。
 戦後食糧難の時代に飲食業の営業が禁止された。そのとき東京のすし組合が政府に陳情して始めたのが「委託加工」というもの。ここで詳しく説明することはしないが、そのとき基本となったのが「握りずし10個」というもので、これを全国に当てはめたがために、「江戸前握り」が広く普及したとされている。
そして「吾妻」なのだけど、当然これは「東」すなわち「東京」をさす言葉のひとつ。
語意からするといちばん古い「東国」を意味するもの。
そして店の前の品書きなどを見ると「箱寿し」、「ばってら」、「押しずし」などがあり、そこに江戸前握りが混在する。
これこそ典型的な「関東大震災時に出来た」大阪の「江戸前すし屋」に違いない。
初めての、しかも見知らぬ街で見つけた「すし屋」に入るのは勇気がいる。
店の前で考えること数分。
時刻は午後2時前、思い切って暖簾をくぐる。

吾妻鮨 大阪府大阪市都島区都島本通り3