寿司図鑑 雑記25

普通の「すし屋」のことを残すのだ

2008-09-19
この『寿司図鑑』がめざすところは普通の「すし屋」が握ったすしをとりあげることだ。
 ボクなど、軽くつまんで一万円なんて店に、年に一度だって行けそうにない。
 庶民の庶民のためのすし屋が、日常的に握った、気取らない握りずしを記録して残すのが目的だといっておこう。
 だから『市場寿司 たか』を見て、実際に食べに来てくれたとして、かなりお腹いっぱい食べても、二千円に届かないだろう。

 江戸時代、文化文政期に握りずしが誕生して、すぐの時代でも「すし屋」は高級店と、屋台の庶民的な店が二分化していた。
 握りずし誕生の根源といわれる『松が鮓』とか『輿兵衛ずし』なんかは立派な店を構えて、とても庶民の手の届かない特種な階級だけの店だった。
 こういった店は現在でも存在するわけで、たった十個のすしが一万円もすることになる。
 実を言うと、うまい握りずしを作り出すためには、すしネタは少ない方が正しい。
 なぜなら“こはだ”はじめ、玉子焼きにいたるまで、いかに厳選したいい材料を選び、いかにていねいに仕込むかが「うまい握り」を作る条件となるからだ。
 煮はま(煮はまぐり)、煮穴子、おぼろ、ゆでえび、などこれを一人の職人が店を開けるまでの時間に作るのは、大変な労力と忍耐力が必要となる。
 そこに“生もの”であるイカ、サヨリ、マアジもしくはマイワシとくる。
 ひとつひとつの原材料が高い上に、仕込めるネタの量も少なくなってくる。
 当然、一個千円を超えるのは至極当然のことだ。
 だから高級すし屋というのが、いかに高い料金をとっても「すばらしいすし」を提供する限り、誠実なんだと考える。

 天保の改革で水野忠邦から槍玉に挙げられた超高級すし屋に対して、二八十六文のそばと同じようにお手軽だったのが屋台のすし屋だ。
 江戸時代後期の値段は4の倍数になるのだけど(四文銭が誕生してから)、1個4文からだから、かけそば16文の代わりに4個の握りが食べられた。
 二八そばの、16文は今の立ち食いかけそば280円から330円くらいに相当する。
 とすると1個70円から80円が屋台のすしだったことになる。
 この値段からすると、屋台のすしの進化型が回転寿司となるではないか。
 なぜならば江戸時代の屋台のすし屋は、もろぶた状の木の箱に出来上がった握りを並べていた。
 まるで飴や、駄菓子を売るように、すしを売っていたわけだ。
 「でも回転寿司は目の前で握っているでしょう」と思われるだろう。
 そうではない、握るという工程だけを、見せてはいるけれど、出てくるものは加工食品に限りなく近いのだ。
 チョコレートや羊羹を売るように、そこに少しだけ「握る」というパフォーマンスをつけ加えている。

 さて、今回の主題である「普通のすし屋」というものは江戸時代にもあっただろう。
 比較的手頃で、しかも屋台のように持ち帰りでも、また立って食べるわけでもない。
 加えるに屋台の中にも安い店、高い店があったろう。
 昭和になっても屋台は残っていて、志賀直哉の「小僧の神様」のすし屋は立ち食いだし、今でも下町に行くと昔ながらの立ち食いの店がある。
 それが屋台の形は残しながらも、徐々に消えて、ほとんどは店を構えるようになって今日にいたっている。
 よくよく歴史的にみても「高い安い」の両極は見えても、中間的なものが見えてこない。
 中間的な位置で生き残ってきた「普通のすし屋」が歴史的に見ても影が薄いように、現在では存在自体が危ういものとなっている。
 日野市は東京都の多摩地区にあるのだけど、チェーン店を除くと20軒しかすし屋はなく、このうち本当に個人営業の店はもっともっと少ないだろう。
 さて、普通のすし屋の敵は間違いなく回転寿司だろう。
 最近では廃業したすし職人が、回転寿司にまわったりしている。
 その回転寿司で「普通のすし屋」を脅かしているのが、「ちょっとお高い回転寿司」というやつだ。
 一皿100円の店はすでに飽和状態であり、しかも「普通のすし屋」の驚異ではない。
 むしろ一皿300円もあり、500円もありなんて国産のネタを使える店が難敵中の難敵だ。
 国内の水産業からすると救いの主に思える、高級志向の回転寿司も個人営業の寿司屋が人知れず保っていた伝統を消してしまいそうだ。
 その目立たない伝統を残していきたいと思うし、個人の店で「優れている店」はしっかり残さないとダメだなとも思う。

 さて、我が寿司図鑑であるけど、すぐそこに1000個目のすしが見えている。
 すでに画像的には1000個のすしを保有してしまっているのだ。
 そのなかにないのが回転寿司と超高級すし店のもの。
 超高級店はともかく、回転寿司まで手を伸ばすと、10000個のすしを目差すことになる。

●次回の寿司図鑑周辺ノートは「多彩なネタを使うこと、食べることは自然に優しいのだ」という話。