寿司図鑑 雑記33

姫路で“大阪ずし”『すし宗』について

2009-02-26

室町時代(戦国時代)末期に「こけらずし」というのがあった。
木箱にご飯を詰めて、上に魚の切り身などをのせて押し(箱自体が圧力をかけられる構造であった。これは今も各地に残る)をかけて寝かせる。
この16世紀にはまだ酢の大量生産は確立していない。
すなわち、この「こけらずし」は“なまなれ”の一種となる。
寝かせることによって乳酸発酵がすすみ酸味がわき、旨味も増える。
関西でこれが箱寿司(押しずし)へと進化していくのだ。
酢が市井に出回り始めるのは17世紀半ば。

ここですしの歴史を振り返る。
古代、すしは乳酸発酵で作るもの。
これは滋賀県などに残る「ふなずし」にその原型を見る。
塩で締めた魚をご飯とと合わせて乳酸発酵させるもので起源は東南アジアにある。
乳酸発酵によってご飯はどろどろとなり、魚は「酢」っぱくなり、旨味も増す。
基本的に粥状になったご飯は捨てて主に魚を食べるもの。
これではご飯がもったいないし、時間がかかりすぎるので、もっと短時間の発酵で済ませる「なまなれ」が誕生したわけだ。
そして江戸時代になって酢の大量生産が始まる。
ここに現代の「すし」が出来上がるのだ。

酵させる必要がなくなり、箱ずしは酢ですっぱくしたすし飯を押し固めるだけになる。
押し固めるのも重しや独特の器具を使わず、体重をかけて短時間押すだけになる。
すし飯の上にのせる種も「こけら」=「魚の切り身」の単純なものから、彩り豊かなものに代わるのだ。
これが大阪ずしを特徴づける箱ずしの誕生なのだろう。
いつのころから、ここに巻きずし、伊達巻きが加わる。
箱ずし、巻きずし、巻きずしの変わり種である伊達巻きが「大阪ずしの基本」で文化文政時代までは「町文化」が作り出した代表的なすしであった。
そして文化文政期に江戸前ずしの誕生となるのだけど、関東大震災、1945年の敗戦までは、この「大阪ずし」が、「町ずし(家庭のすしに対しての。これに関しは別項をたてる)」の代名詞だったはずだ。
文政期(1818〜1829年)には大阪に江戸前ずしが進出してきている。
これは江戸に手で丸めたすし飯にトンとすし種をのせるだけという、江戸の町で握りずしの誕生してからほどない。
でもやっぱり関西では「大阪ずし」全盛期がながながと続くのだ。
そして関東大震災で江戸前ずし職人の地方への分散があり、戦後の委託加工の時代を経て、多くのすし屋で「大阪ずし(関西ずし)」もだすが「江戸前握りずし」が加わることになる。

姫路駅をおりると姫路城に向かってまっすぐに大きな通りが走る。
城の大手門に通じる大手前通りだ。
駅から歩いてほどなくの大手前通りに『すし宗』がある。
ビルだし、造りが悪いのでとても入る気にはなれない。
通り過ぎようとして入り口のドアに貼ってあったのが「このしろすし」の文字だ。
この数分前、駅地下のスーパーのような場所でコノシロが三枚に卸されて売られていた。
なんだ、それがどうしたと思われるかも知れないが、意外にコノシロを好んで食べる地域は少ない。
特に山陽から山陰に抜けると、まったくコノシロを食べなくなる。
それで思わず店内に入ることになった。
これが大正解だった。
店の品書きを広げたら、「大阪ずし」、たくさんの巻きずし、ばってら、はこずし(いわゆる箱ずしではない)の関西ずしがあり、品書きの左4分の1のところに江戸前握りが載っている。
握りが三個単位であるのは、江戸前握りが関西に普及してまもなくの“ならわし”であり、これも大発見だ。
この店はまさに「大阪ずし」を出していたところに江戸前握りが導入されたに違いない。

店内には女性がひとりでお茶などを配っているところで、お客はまばら、しかも失礼ながらご老人ばかりに思えた。
さて、品書きから「大阪すし」、「このしろすし」をお願いして、待つこともなく、待つ。

●「大阪ずし」と「関西ずし」の2つの言葉を併用して使った。このあたりの説明は別項を立てる。

すし宗 兵庫県姫路市南町58